【読書感想】<わたし>は脳に操られているのか エリエザー・スタンバーグ

<わたし>は脳にあやつられているのか エリエザー・スタンバーグ

<わたし>は脳にあやつられているのか エリエザー・スタンバーグ

 

<わたし>は脳に操られているのか  エリエザー・スタンバーグ 大田直子訳

2016年に発刊されている本です。

先日、読んでいた「独学の技法」でおすすめとされている本の1冊です。

脳については以前から興味があり、拾い読みのように色々な本を読んでいたのですがこの本は結構難しいように思います。

 

この本の主題となるのは、以下まとめられます。

脳科学の手法や発見に対する信頼と、意図を持つ道徳的行為主体としての人間の尊厳に対する信念、両方を維持できる方法がある。  P.11 

神経科学の原理として「神経生物学的決定論」の立場を持っています。脳科学神経科学共に発展をする中でこの「決定論」を裏付ける結果が出ています。つまり、科学的に考えると脳内では、自然現象と同じく厳格な化学や物理の法則に従って行為をしていると考えられています。

しかし、「決定論」では人が思考をし選択をして行動することに対しても同様と考えることとなります。つまり、「脳」が全て決めている。または、結論は考える前から出ているということに他なりません。

 例えば、人が物事の善悪を考え、思考を巡らせながら一つの選択をすることがその人にとっての「自由意志」を発揮することとならないのであれば、責任を負うことは出来ないです。もし、この考え方が正しいとするとこれからの人類が持つ価値観にも影響がある問題です。

<第1章>人を殺したのは脳のせい?

1991年アメリカで起きた殺人事件を題材として展開します。

殺人事件の法廷で展開された弁護。その内容は、犯人が脳内物質の影響を受け犯行に至ったため全責任を追うことは出来ないというものでした。法廷では通用しなかったため犯人は死刑になりましたが、もしその弁護団が正しかった場合もちろん犯人に責任を全て負わすことは出来ないとなります。

 <第2章>意志はころがり落ちる石なのか

神経科学の原理「神経生物学的決定論」の解説です。

神経科学の原理として「決定論」とはどんな考え方なのか?についての解説を転がる石に例えています。あらゆる自然現象に見られる法則とそれにまつわる情報があれば結論が予測できる(決まっている)。とする考え方です。一部例外となる量子についても触れていますが、外して考えるとしています。

 <第3章>二つの対立する答え

神話を題材に意識的に思考や行動を起こす「自由意志」について書かれています。「自由意志」と「決定論」が相容れないことをまとめています。また、その相容れない考え方の中間「両立論」についても解説されています。

 <第4章>頭のなかの嵐

文学「レ・ミゼラブル」で葛藤するジャン・ヴァルジャンを題材に展開します。「限りのない問題」「道徳的内省」などを切り口に「決定論」では説明のつかない領域を示します。そして、そこを解決になりそうではあるものの、やはり誤っている「二元論」やニューロンの相互作用から発生すると考えられる考え方「創発特性」についても解説。

  <第5章>抑えられない衝動

特定の「」への損傷が意識コントロールの機能障害を示している症例を解説しています。この症例から、人間の決定は自由ではなくアルゴリズムで引き起こされると推論。

 <第6章>神経学者の見解は間違っている。

神経学者は行為主体性を目に見えず検知できない力として昔からある理論を捨て、ニューロンモデルに置き換えることを解決策としている。そこにある神経学者の主張を論理的に否定している。

 <第7章>理性は情動に依存する。

研究者アントニオ・ダマシオの説を解説する。ダマシオが展開する「ソマティック・マーカー理論」はあくまで影響は及ぼすが、最終的な意思決定は自己の判断とされている。

 <第8章>決断の引き金が明らかに

生理学者ベンジャミン・リベットの研究を解説する。反射行動を意識的にコントロールしない。また、意識される意志が行動を引き起こすのではないと結論づけている。リベットは「自由意志」とは、「拒否をする」能力だとしている。そして、ニューロンは意思決定プロセスの全体に責任を負う。ただ、最終的には道徳的行為主体に残されるとしていた。そして、その反証の解説をする。

 <第9章>マジシャンとしての脳

心理学者ダニエル・ウェグナー「意識にのぼる錯覚」の3つの要因についての解説。「先行」「整合」「排他」からなるとされる。意志の感覚は道徳的情動の基盤、そして行動を決定する因果の連鎖の一部であるとしている。その主張の問題点。

 <第10章>心や体の動きを予測する

神経科学者アポストロス・ゲオルゴポウロスの研究を中心にニューロンの動きから行動が予測できるのかどうかを解説する。そのほかの行動予測の実験などを通して、現在の「決定論」を優勢にしているとする。

 <第11章>人間はプログラムされたマシンか

精神科医ピーター・D・クレイマーの著書の中では抗鬱剤が脳内物質に働きかけ、知的能力や社交性に良い効果をもたらすことがあることが書かれている。薬によって、脳内物質に働きかけることで性格まで変わることが示されている。

 <第12章>悪徳の種が脳に植えられている?

1924年に起こった殺人事件、その法廷での弁論にて「決定論」が訴えられ犯人は極刑を免れた。そこから脳精髄液を研究した結果やホルモン刻印について、そして遺伝子によって犯罪に犯す可能性についての研究を解説する。

 <第13章>倫理の終わり

神経学者マイケル・ガザニガの「左脳の解釈装置」の研究について解説をする。ガザニガは信念の形成・道徳的基準・宗教的概念は「」が決定するとしている。しかし、「自由意志」も肯定している。個々の人間に「自由意志」は無いが、「自由意志」は人々の相互作用に関わる概念としている。

 <第14章>意識の深さを探る

脳卒中による全身麻痺になったが、瞬きで意図を伝え本を書き上げる。この事実もニューロンによって決まっていたとすることに違和感がある。その点についての考察を通して「決定論の飛躍を明確にする。

 

この盲信ー実験室での物理的相互作用が決定しているのだから、人間の行動も決定しているはずだという飛躍ーは、彼らの論法の最も大きな空白を要している。                      P.208 

 <第15章>アルゴリズムは「限りない問題」を解けない

ある問題について、アルゴリズム(一連の公式からなる緻密な数学的手順)ではどうなるか?アルゴリズムではなく経験による判断があることを証明する。決定論的システムと人間の論理的思考の違いを主張する。

 <第16章>内面世界を意識的に旅する

」のアルゴリズム判断と思索的内省の違い。人間の論理的思考を以下のように説明する。

アルゴリズムを超越するー状況を理解し、意味を認識し、想像し、意識的に熟考し、限りのない問題を論理的に考え、自由な行為主体として行動するー                                                                          P.250

そして、アルゴリズムコントロールできる自由な意識があることで「決定論」を超えることができると結論づける。

 <第17章>道徳的行為主体はいかに生まれるか

著者が考える解決方法の解説。「決定論」である物理学に「ランダム性」の量子力学の発見があったように、「決定論」は「ランダム性」から発生すると主張する。つまり、行為的主体性とされる意識はも同様と捉えることができるのではないかとしている。

 <第18章>心の宮殿

脳科学」を通して道徳的判断、物事の善悪に関してはどんな方程式も解くことができない。つまり「決定論」では判断できず、また明確な答えも未だない。また、「意識」「自由意志」などにおける明確な答えはないがこれからの研究で明らになるのではないかとしている。

 

<まとめ>

文学や神話、そして現代の「脳科学」の成果など多岐に渡った例を用いて展開されている「自由意志」そしてそこから導き出される「決定論」と「自由意志」との関係。「」と表現される道徳的な行為につながる倫理についてなど、内容は幅が広い本でした。様々な事実を知ることが出来た内容の濃い本だと思います。

 部分的なところで、私が考えたことは<第2章>で解説される「決定論」を読み「人は変わらない」ということ。脳内のアルゴリズムが弾き出す決定を繰り返していれば、その人はやはり変わらないのでしょう。これが、人間が持つ不合理さに繋がっているのだろうと

 「脳・神経科学」と「心」と解釈されているものが同一のシステムで成り立っているとはどうしても思えない私には、この本の主張はわかりやすくまた納得してしまうところが多くあった